シャヒード、100の命 ―パレスチナで生きて死ぬこと― | ||||
授業のノート |
アスィール・アーセラ
17歳。両親と妹がいた。 アスィールはイスラエル領内のアッラバフに住んでいた。父親は過去にイスラエル政府によって治安上の理由で8年間も投獄された。現在は商店を経営している。母親は学校のカウンセラーを務めている。アスィールは勤勉で成熟した青年だった。たゆまず努力し、何事にも抜きんでていた。アメリカ合州国の交換留学制度で学校の代表として選ばれた。コンピュータが得意で、自分のウェブサイトも持っていた。1997年、イスラエルとアラブの共存プログラム「平和の種」のメンバーに選抜され、イスラエルのアラブ・マイノリティの代表として、ほかのメンバーとともに海外を旅した。アスィールはグループのガイド役に選ばれ、中東の代表として活発に行動した。アスィールと知り合った誰もが彼を愛した。コフィ・アナン国連事務総長やマデリーン・オルブライト国連大使にも会い、ヒラリー・クリントンと話をしたこともある。クリントン大統領は「平和の種」におけるアスィールの活躍に対して特別賞を与えた。彼は亡くなるその日まで、「平和の種」のメンバーとして活動した。父親はアスィールがいかに熱烈に、2つの民族の間の平和を信じていたかを覚えている。 2000年10月10日、殺されたときも、彼は「平和の種」の緑のシャツを着ていた。母親は家の近くで衝突が起こったのを知ると、息子がそばにいないので心配のあまり震え上がった。タクシーで兄と衝突現場に駆けつけると、若者たちが逃げまどっていた。イスラエル警察が銃撃を始め、催涙ガスを投げていた。2人の若者が肩を抱えられ連れていかれるのを目にした母親は叫んだ、「あれはアスィールではないの?」青年たちは違うと答えたが、母親は緑のシャツに確かに見覚えがあった。「あの子のほかに誰も緑のシャツなんて着ない。あれはアスィールに違いないわ」母親は狂乱した。アスィールはサクニーン市に運ばれたあと、ナハリーヤの病院に移送され、そこで死亡を宣告され、母親は泣き崩れた。父親が言うには、アスィールは衝突現場から50メートルほどの所にいた。オリーブの茂みの背後に友人のアラー・ナッサールと身を隠していたところ、突然、イスラエル兵が2人に襲いかかった。彼らはアスィールをつかまえると銃座で殴り付け、地面に引きずり倒し、銃口を首に押し当てて何発も発射したのだった。 |